2025/06/04
クリニック承継のトラブル実例
クリニック承継は、既存の経営資源や患者基盤を引き継ぎながら、初期投資を抑えてスムーズにスタートできる合理的な開業手段として注目を集めています。しかしその一方で、準備不足や人選ミス、現場理解の乏しさが原因で経営不振に陥るケースも少なくありません。特に、医療経営の実務を理解しない事務長や、医療業界に不慣れな第三者が判断を主導すると、承継後にトラブルが多発する傾向にあります。こうした事態を避けるためには、「誰に」「どのように」クリニックを託すか、そして承継プロジェクトをいかに設計するかが重要な分岐点となります。本稿では、一般社団法人SECONDが実際にサポート現場で目にしてきた複数の診療科における承継失敗事例を紹介し、それぞれから得られる教訓を整理します。相続・M&A・第三者承継といった多様な選択肢が広がる今こそ、安易な判断が将来の経営リスクを生むことを理解し、長期的な視点から最適な承継戦略を構築することが求められます。
失敗事例1:承継後すぐに患者離れが起きた内科クリニックの悲劇
クリニック承継開業は、既存の患者基盤やスタッフ、診療体制を引き継げる点で魅力的な選択肢とされており、特に近年では第三者承継(医療M&A)のニーズが急速に高まっています。しかし、承継後の運営に失敗し、想定外のスピードで患者数が激減するというケースも少なくありません。ここでは、地方都市にある内科クリニックが承継直後に患者離れを起こし、経営危機に陥った実例を紹介しながら、そこに潜むリスクと教訓を解説します。
背景:地元密着で信頼を集めていたクリニック
このクリニックは、ある地方都市で30年以上続いた個人内科医院。初代院長は地域の「かかりつけ医」として親しまれ、慢性疾患の高齢患者を中心に1日平均60〜70名の患者が通院していました。院長の丁寧な診察スタイルと、長年の信頼関係が患者との絆を築いており、広告などを打たずとも安定した収益を確保していたのです。
問題の始まり:後継医師は都市部出身の若手ドクター
引退を決めた初代院長は、都市部で勤務していた40代の内科医とM&Aによる第三者承継を実施。事業譲渡契約を通じてクリニックを引き継ぎ、診療スタイルや人員構成は変えずにスタートするという計画でした。しかし、実際には承継直後から患者数が急減。3ヶ月後には1日40名を切り、半年後には25名程度にまで落ち込み、経営に大きな打撃を受けました。
原因1:患者が“院長”ではなく“人”に通っていた
このクリニックの根本的な特徴は、患者が「クリニック」ではなく「院長個人」への信頼で通っていたことです。初代院長は毎回の診察で時間をかけ、生活習慣へのアドバイスも行うスタイル。一方、後継医師は「効率的で論理的」な診察を好むタイプで、1人あたりの診療時間も短く、患者とのコミュニケーションが希薄でした。「あの先生じゃないなら、別の病院に行く」という声が、徐々に高齢患者の間で広がっていきました。
原因2:スタッフとの信頼関係が希薄だった
引き継ぎにあたり、スタッフは全員継続雇用されましたが、後継医師は事務長などのキーパーソンと十分な関係構築を行わないまま現場に入ったため、院内の雰囲気がギクシャク。受付や看護スタッフが医師への協力姿勢を見せなくなり、診察の流れもスムーズにいかない場面が目立つようになりました。結果として、患者から「雰囲気が変わった」「なんとなく不安」といった声があがり、離脱に拍車がかかりました。
原因3:地域医療ネットワークの断絶
初代院長は地域の開業医や病院、介護施設などとの連携が強く、紹介患者や地域包括ケアの中心的役割を担っていました。しかし、後継医師は都市部のキャリアであり、地元の医療関係者との接点がほぼゼロ。承継後も挨拶回りや連携づくりを怠った結果、紹介元からの信頼も失い、紹介患者数が激減しました。
教訓:承継開業には「地域理解」と「関係性構築」が不可欠
この失敗事例から明らかなのは、クリニック承継は単なる事業譲渡ではなく、“人と信頼を引き継ぐ行為”であるということです。いくら医師としてのスキルが高くても、地域に根ざした信頼関係を理解せずに承継を進めれば、患者・スタッフ・医療連携のすべてを失うリスクがあります。特に内科や小児科など「かかりつけ志向」の強い診療科では、患者が“診療所のブランド”ではなく“医師との関係性”に通院を委ねているケースが多いため、これまでの診療姿勢や地域への配慮を丁寧に踏襲する必要があります。
SECONDが推奨する対策
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承継前6ヶ月以上の院内同席や引き継ぎ期間を設ける
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スタッフと後継者の信頼構築を丁寧に進める
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紹介元や医師会、近隣施設への積極的な挨拶と連携強化
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承継に精通した有識者(例:一般社団法人SECOND)による実務支援
クリニック承継を成功させるには、「診療の継続性」と「関係性の継続性」の両立が欠かせません。承継を“経営戦略”として捉え、時間と労力を惜しまずに現場と向き合うことでリスクを最小限に抑えることができます。
失敗事例②:「地域密着」を継げなかった若手院長の孤立
クリニック承継には、「立地・設備・患者・人材」といった経営資源を引き継げるという大きな利点があります。しかし、それらが活かされるかどうかは、後継者の地域理解と関係構築力に大きく左右されます。特に“地元密着型”の内科クリニックでは、院長という存在そのものが「地域の信頼の象徴」であるため、単なる引き継ぎでは済まされない要素が多く存在します。ここでは、都市部から移住した若手医師が地域の空気になじめず孤立し、信頼を失った実例を紹介します。
事例:高齢医師が営んでいた地域密着型クリニック
このクリニックは、ある中山間地域で40年以上地域医療を支えてきた内科診療所です。院長は地元出身で、患者との距離も近く、農繁期には診療時間を柔軟に調整するなど、地域の暮らしに深く根ざした診療スタイルを貫いていました。患者の多くは近隣に暮らす高齢者で、診療だけでなく、家庭内の悩みにまで耳を傾ける存在として信頼を集め、長年親しまれてきました。しかし、院長が高齢となり、引退を決意。後継者として都市部在住の30代医師が第三者M&Aを通じてクリニックを承継することとなりました。この新任医師は非常に熱意を持っており、医療技術にも自信がありました。電子カルテの導入など、最新の診療体制で質の高い医療を提供する意欲を持っていました。
問題点:地域性を理解しない診療スタイル
承継後、若手医師は診療の効率化と都市型のマネジメント手法を導入。完全予約制、診察時間の短縮、オンライン受付など、システム面では現代的な改善が多く行われました。ところがこれが地域住民の不満を招きました。「急な風邪でも予約がないと診てもらえない」、「前の先生は家族の話も聞いてくれたのに、今は事務的になった」などの声が増え、徐々に患者の足が遠のくようになります。高齢患者にとって「待つこと」よりも「急な対応」に価値があるという点を、後継医師は理解していなかったのです。
地域社会との“非接触”が信頼喪失を招く
さらなる問題は、地域住民や医師会、介護事業者との接点がほとんどなかったこと。前院長は町内会や地元行事に積極的に顔を出していた一方、後継医師はプライベートを重視し、業務外の関係構築には消極的でした。結果として「先生が何を考えているかわからない」「うちの町にはなじんでない」といった評判が広まり、地域の医療ネットワークから孤立してしまったのです。
スタッフとの温度差も決定的に
ベテランスタッフは地域の慣習や患者の気質を熟知していましたが、後継医師のやり方に意見を言うことは許されず、現場には“押しつけの空気”が漂うようになりました。やがてスタッフの中に退職者が出始め、患者対応や業務運営にも支障が生じるようになり、さらなる悪循環に陥っていきました。
教訓:地域密着型クリニックでは「医療力」より「関係力」
この事例から得られる最大の教訓は、地域密着型クリニックでは「医師としての実力」だけでは不十分だということです。むしろ、地域文化への理解、住民との信頼関係、顔の見える関係構築といった“非医療的な要素”こそが承継成功のカギを握ります。また、地方における「患者の通院先」は診療技術だけでは選ばれず、「人柄」や「つながり」が大きな要素になるため、前院長と共通点を意識的に演出する工夫も重要です。
SECONDの視点:地域承継には“対人設計”が必須
一般社団法人SECONDでは、医療機関の承継支援において「関係性の承継」を重視しています。後継者にとって未知の地域・文化での承継では、住民感情、行政対応、近隣医療との連携といった“人間関係設計”のサポートが必要不可欠です。また、引き継ぎ期間中に前院長と後継者が2人で診療にあたる時間を十分に設け、患者に安心感を与えるステップを踏むことも大切です。特に高齢化が進む地域では、「いきなり変わる」こと自体が不安要因となり、患者離れにつながるからです。
“合理性”を追求しすぎて、信頼を失った結果に
クリニックの承継において、医療の質の向上や経営効率の追求は確かに重要な観点です。最新の診療機器の導入、電子カルテによる業務の効率化、データに基づいた経営判断。それらは「正解」のように見えるかもしれません。しかし、それが地域社会の空気感や患者との長年の信頼関係を無視したものであるならば、その「正解」は時に取り返しのつかない「不正解」になり得ます。
医療は、単なるサービス業ではありません。とくに地域に根ざしたクリニックでは、患者との人間関係や日々の対話、些細な習慣や生活圏の理解が、診療行為そのものと同じくらいの価値を持ちます。たとえば「農繁期には診療時間を少し遅らせる」「おくすり手帳より、顔を見て声をかける」――そういった一見すると非合理的な対応こそが、患者にとっての“信頼の証”となっているのです。つまり、承継とは「医院を引き継ぐ」のではなく、そこに根付く文化・空気・温度感を丸ごと受け継ぐ行為にほかなりません。地域社会との間に積み重ねられた見えない信用や、患者が“変わらないこと”に安心を感じている現実を理解せずに、ただ合理的に仕組みを変えても、思うような結果は得られません。
今回の事例のように、たとえ医師としての能力や経営の才覚が十分にあったとしても、それが地域住民やスタッフとの関係構築に活かされなければ、承継後に患者が離れ、スタッフが辞め、経営が行き詰まることは現実に起こり得るのです。承継を成功させるには、“見える資産”だけでなく、“見えない資産”をいかに尊重し、引き継ぐかという視点が不可欠です。数字では測れない「信頼」や「土地柄」こそが、地域クリニックの最大の資本なのです。経営を合理化する前に、まず非合理な人間関係と信頼を尊重すること。それが、クリニック承継を成功へと導く最も本質的な準備なのかもしれません。
失敗事例③:スタッフ大量離職の引き金は“たった一言”だった
クリニック承継の成功において見落とされがちなのが、「スタッフとの関係構築」です。医療機関におけるスタッフは、単なる労働力ではなく、患者との接点・組織の安定・院長との信頼関係を支える“人財”です。承継後にこのバランスが崩れると、スタッフの離職が連鎖し、経営の根幹が揺らぐことになります。今回は、承継初期の「たった一言」がスタッフの心を離れさせ、大量退職へと発展した失敗事例を紹介します。
背景:安定経営を続けていた婦人科クリニック
都市部にある開業25年の婦人科クリニック。前院長は温厚な人柄で、10年以上勤めるスタッフも多く、医師とスタッフの関係性が非常に良好なことで知られていました。患者もスタッフに対する信頼が厚く、「先生と看護師さんたちが優しいから通っている」という口コミが絶えない、いわば“人に支えられた診療所”でした。後継者には、大手病院出身の40代女性医師が就任。医療技術や診療姿勢に問題はなく、設備の更新や予約システムの見直しなど、業務効率を意識した取り組みに意欲的でした。
転機:承継初日の朝礼での「一言」
承継後、スタッフにとって最初の不安要素となったのは、後継院長の初日のあいさつでした。開口一番、院長はこう言ったのです。「前のやり方は非効率だと思うので、私のスタイルに合わせてください。」その瞬間、場に張り詰めた空気が走りました。長年、前院長と築いてきた運営体制に対する敬意が感じられず、「過去を否定された」という印象が強く残ったのです。とくに古参のスタッフは、「私たちの働き方を全否定された」と受け取り、モチベーションが一気に下がりました。
数週間後:立て続けに起きたスタッフの退職
その後も後継院長は業務効率や診療スピードを優先し、患者対応の「心の通ったコミュニケーション」を軽視する場面が増加。スタッフにとっては、「自分たちのケアが軽んじられている」と感じる毎日が続き、ついに1人、また1人と退職者が出始めました。最終的には承継から3ヶ月でスタッフの半数が離職。残った人材だけでは診療の質を保てず、待ち時間の増加・ミスの増加・患者クレームの増加という悪循環が生じました。
教訓:スタッフの「感情」こそが組織の命綱
この事例の本質は、「診療の内容」や「技術の正しさ」ではなく、現場で働く人間の“感情”が置き去りにされたことにあります。医療現場はチームで成り立っており、そこには人間関係・信頼・安心感といった“目に見えない資本”が必要不可欠です。たった一言でも、「過去の否定」や「自分たちの軽視」と受け止められれば、スタッフの心は静かに離れていくのです。そして、それはどんな新しい機器やITシステムでも取り戻すことはできません。
SECONDが伝える「スタッフ承継」の重要性
一般社団法人SECONDが承継支援を行う際には、後継者とスタッフの“心理的な橋渡し”を重視しています。承継前後での職員面談、スタッフ向け説明会、価値観共有ワークショップなどを通じて、「この人についていこう」と思える関係性を築くことが、成功する承継の第一歩です。また、後継者自身にも、現場の雰囲気を観察し、まず“敬意をもって引き継ぐ”姿勢が求められます。経営者としての改革意識は必要ですが、過去の努力の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
まとめ:承継に必要なのは「経営の手腕」よりも「共感の一言」
スタッフが安心し、やる気を持って働ける環境を保つことは、患者サービスの質を守ることに直結します。クリニック承継は“人の感情を引き継ぐプロセス”であることを常に意識し、言葉ひとつ、態度ひとつに細心の注意を払う必要があります。たった一言が、すべてを変えることがある。それが、組織という「生きもの」の怖さでもあり、可能性でもあるのです。
失敗事例④:のれん代を支払っても黒字化できなかった皮膚科M&A
クリニックM&Aは、既存の患者基盤・立地・設備を活かして開業初期のリスクを軽減できる点で、多くの医師に注目されています。特に都市部の皮膚科クリニックは、一定のニーズがあり、比較的スムーズな承継が期待されがちです。しかし、数字上の期待と現実とのギャップにより、M&A後に経営が傾く事例も少なくありません。ここでは、のれん代(営業権)を支払って承継したものの、黒字化できずに苦しんだ失敗事例を紹介します。
事例:都心駅近の皮膚科クリニックを高額で買収
40代の皮膚科医A氏は、都心部の駅近ビルにある皮膚科クリニックをM&Aで取得。譲渡金額は約8,000万円、そのうち約3,000万円がのれん代として計上されていました。診療実績やカルテ数も豊富で、「場所・実績・見込み患者」すべてが揃った優良案件と判断されたのです。承継後すぐにリニューアルオープンを実施し、Web広告やSNSによるプロモーションも展開。院長は「集客には困らない」と見込んでいました。
問題点①:前院長と現院長の診療スタイルの違い
患者の多くは、前院長の漢方・保険診療中心の“じっくり診療”を評価して来院していました。しかし、新院長は美容皮膚科や自費治療を中心とした短時間・回転型の診療方針を採用。受付やカウンセリング体制も一新した結果、「先生が変わって雰囲気も変わった」との声が多数寄せられるようになりました。1年も経たずに、リピーター患者の約4割が離脱。残ったのは、自由診療目的の新規患者ばかりで、定期的な外来収入が安定しない状態が続きました。
問題点②:のれん代の“回収設計”がなかった
のれん代とは、営業権や信頼関係、ブランド価値に対して支払う見えない資産です。しかし、A氏はこの金額をどうやって回収するのかを具体的に検証していませんでした。実際、承継後1年の営業利益はゼロに近く、広告費・リニューアル費用・人件費の増加でキャッシュが逼迫。のれん代どころか、運転資金の補填に追われる日々が続きました。
問題点③:スタッフの経験値が想定以下だった
旧体制のスタッフは、主に保険診療に慣れており、自費診療に必要な接遇・提案スキルに乏しかったため、業務レベルが新体制に合わずストレスが蓄積。カウンセラーや受付担当の入れ替えを急いだものの、定着せず、職場の雰囲気は常に不安定でした。
教訓:のれん代は“実績”ではなく“継続性”に払うもの
このケースで最も重要な教訓は、「のれん代=これまでの実績への対価」ではないという点です。むしろ、前院長の人柄や診療スタイルといった“目に見えない価値”が引き継がれなければ、その資産価値はゼロに等しいのです。また、診療方針を大きく変更する場合には、その地域の患者層や期待値を丁寧に分析し、段階的に導入することが不可欠です。いきなり経営方針を刷新すれば、ブランドの価値そのものが消えてしまいます。
SECONDの視点:のれん代の“妥当性”は中立の視点で見極めよ
一般社団法人SECONDでは、クリニックM&Aにおけるのれん代の評価やリスク分析に力を入れています。第三者として、診療スタイル・患者属性・人材力・地域性を多面的に評価し、「のれん代に見合う承継設計かどうか」を冷静に見極める支援を行っています。また、承継後のキャッシュフロープランや集患戦略の立案など、「買って終わり」にしない経営支援が欠かせません。特に自費診療を軸に据える場合は、スタッフ教育や導線設計にも時間と資金をかける必要があります。
数字だけを信じるM&Aは、危うい
クリニックの承継において、第三者M&Aは年々一般化しています。事業としての価値を客観的に評価し、売上や利益、診療圏データをもとに譲渡価格を算出する——このような手法は一見合理的で、投資としての“筋”が通っているように見えます。しかし、現実の医療経営は、そこまで単純ではありません。地域密着型のクリニックにおいて最大の資産は、「人」です。医師、スタッフ、患者、さらには近隣薬局や地域住民との関係性——これらは財務諸表には載ってこない“非数値資産”です。つまり、過去の売上実績や駅からの距離だけでは、そのクリニックが今後も同じように患者を集め続けられるかどうかは分からないのです。
例えば、前院長とスタッフの間に強い信頼関係があった場合、新しい院長がその文化や距離感を無視して経営を進めれば、スタッフの離反や士気の低下につながる可能性があります。また、患者の多くが「先生だから通っていた」というケースも珍しくなく、医師が変わった途端に来院頻度が落ちる、あるいは完全に離脱するという現象も起こり得ます。のれん代を支払って承継したとしても、それは「信用を一時的に預かった」に過ぎません。
そこから継続的に成果を生むには、地域やスタッフとの関係性を丁寧に再構築し、「このクリニックは変わらない」「新しい院長でも安心できる」という実感を、周囲に抱かせる必要があります。さらに、承継後の戦略や組織づくりが不十分な場合、以前の経営よりもむしろ悪化するケースすらあります。過去の数字は過去のものであり、現在と未来の患者ニーズに合った経営ができなければ、数字の再現性は担保されません。結局のところ、M&Aは単なる「売り買い」ではなく、「信頼と文化の橋渡し」です。譲渡価格や帳簿上の利益ばかりに目を向けるのではなく、「何がこの医院の価値なのか」「その価値を引き継ぐ覚悟と体制があるか」を問うことこそが、承継成功の第一歩と言えるでしょう。
失敗事例⑤:経験不足な事務長主導による分院展開の失敗事例
近年、承継成功後にクリニックの事業拡大の手段として、本院とは別に「分院展開」を選択するケースが増えています。特に本院の経営が安定し、患者数も順調に推移していると、次の成長ステップとして分院を構える流れは自然なように見えます。しかし、分院開設を“経験の乏しい事務長”が主導した結果、本院・分院の両方に深刻な混乱を招いた事例が少なくありません。ここでは、経験不足の事務長が独断で主導した分院展開が診療の現場を崩壊させた典型的な失敗例を紹介します。
背景:整形外科クリニックが分院展開を検討
ある地方都市で運営されていた整形外科クリニック。本院は地元でも評判がよく、外来患者数も多く、リハビリ需要にも対応できる体制が整っていました。院長は診療に専念し、経営実務の多くを信頼する事務長に任せていたため、事務長が経営拡大の方向性を提案する機会も多くありました。そんな中、事務長は「この勢いで隣接エリアに分院を出せば成功する」と判断。医療法人化したばかりのタイミングで、早急に物件を確保し、スタッフ採用も進め、院長には「もう話を通してあります」と報告する形で、分院プロジェクトは動き出してしまったのです。
問題①:現場の診療設計が不在だった
事務長の進行による分院プロジェクトは、立地や賃料、資金計画といった“数字”には一定の説得力がありました。しかし肝心の診療方針や医師体制については詰めが甘く、当初は非常勤医師のローテーションで運用する予定が、急遽本院からスタッフを一部引き抜く形に変更されました。その結果、本院の人手不足が顕在化し、診療待ち時間の延長、スタッフの疲弊が進み、患者からのクレームが増加。本院の安定した運営が崩れはじめました。
問題②:分院の立ち上げが形だけに終わった
さらに、分院には新しい電子カルテや予約システムが導入されましたが、スタッフへの研修が不十分で、受付から診療までの動線が確立されないままオープン。患者の誘導ミスや処置の遅れが頻発し、初診患者の定着率が著しく低下しました。加えて、分院の診療時間が地域ニーズと合致せず、午前中に患者が集中する傾向があるにもかかわらず、午後中心のシフトが組まれていたため、集患施策も的外れとなりました。
問題③:事務長が「開業=成功」と誤認していた
この事務長に共通していたのは、「分院を出すこと」自体が目的化していたことです。開設そのものは目標達成のように見えますが、実際には医療現場がうまく機能し、患者満足とスタッフの安定が両立しなければ経営は成立しません。分院開設から6か月後には、本院と分院あわせてスタッフの離職が相次ぎ、特にリハビリ職の人材確保が追いつかなくなりました。来院患者数は本院・分院ともに前年同期比で20%減少し、収支は大幅に悪化。最終的に分院は1年以内に閉院を余儀なくされました。
教訓:診療現場を知らない者が“主導権”を握るリスク
この事例における最大の問題点は、分院展開が「経営判断」で完結してしまい、「医療現場」の視点が抜け落ちていたことです。医療は数値管理や損益分岐点だけで動くものではなく、患者ニーズや診療体制、スタッフの適正配置といった“感度の高い要素”が密接に関係します。とくに分院は“もう一つの現場”である以上、既存の文化をそのまま持ち込むだけでは通用せず、地域ごとの適応と柔軟な設計が求められます。
SECONDの視点:分院展開には「医療×経営」の共創が必要
一般社団法人SECONDでは、クリニックの分院展開や事業拡大を検討する医療機関に対し、単なる経営視点だけでなく、診療オペレーションや地域ニーズまで踏まえた実行支援を行っています。院長の想いや現場の事情を丁寧に汲み取り、事務長や経営陣との橋渡しをすることで、「現場に根付く分院」を設計・実現するサポート体制を構築しています。
分院成功の鍵は、“開くこと”ではなくその先の“続けること”までを考える
分院を開設すること自体は、資金と意思決定さえあれば比較的スムーズに進めることができます。物件を探し、人員を確保し、スケジュールを立てて開院日を迎える――そこまでは、事務方や経営サイドの努力で形にすることが可能です。しかし、本当に難しいのはその“後”です。分院が開いた瞬間から始まるのは、「地域に根ざした医療機関として機能するかどうか」という、目には見えにくい課題との闘いです。たとえば、患者にとって通いやすい診療時間帯なのか。受付や診療の流れにストレスはないか。既存スタッフとの連携は取れているか。こうした細やかな“現場のリアル”を踏まえた設計ができていなければ、患者定着率は上がらず、早期に撤退を余儀なくされるリスクも高まります。
また、地域との関係性づくりは、紙の計画書には書ききれないほど重要です。地域の生活リズムや高齢化率、在宅医療ニーズなどの文脈を読み取ったうえで、診療方針を柔軟に調整できるかどうか――それが「続ける医療」の根幹になります。分院展開という選択が、“成長のステップ”になるのか、それとも“経営負担の増大”につながるのか。その分かれ道は、誰がどの視点で進めるかにかかっています。「開設の瞬間」に満足せず、「定着し続ける未来」を見据えた準備と体制構築が必要だと考えます。
参考データ
| 項目 | 数値・割合 | データ元 |
|---|---|---|
| 全国の開業医における60歳以上の割合 | 約49.2% | 厚生労働省「医師・歯科医師・薬剤師調査(2023年)」 |
| 70歳以上の開業医の割合 | 約26.7% | 同上 |
| 親族外による第三者承継の比率 | 約70% | 医療M&A支援会社調査 |
| クリニックM&Aの年間流通件数 | 約2,000件 | 日本医療M&Aセンター(2023年)より |
| 承継案件の成約までの平均期間 | 約12〜18カ月 | 医療承継支援事業者ヒアリング |
| 新規開業の初期費用目安 | 7,000万〜1.2億円 | SECOND社「開業実績データベース」より |
| 承継開業の初期費用目安 | 3,000万〜8,000万円 | 同上 |
| 開業から黒字化までの期間(新規) | 平均2〜3年 | SECOND監修案件実績 |
| 開業から黒字化までの期間(承継) | 平均6〜12カ月 | 同上 |
